弁護人

 ◎弁護人(변호인)

 

 ソン・ガンホ、痩せたなあ。

 韓国も、1978年当時は、まったく日本とおなじ出前かあ。おかもちだしw

 でも、ようやく話が回り始めるのは20分過ぎてからってのはきつい。司法試験をめざしてた貧乏な時代、団地の建設作業員で自分の作った部屋に息子が生まれたとき落書きをし、お金が溜まったときにそこに入る夢を叶え、また苦労してたときにツケで食べさせてくれた食堂に戻って安い飯を食べるまでなんだけど、ちょい飽きる。なんとなく、コメディっぽさも漂わせた、温雅なイメージでくるのが余計に肩すかしにあわされたような気分だ。

 でも、これがないと依頼人に結びつかない。

 がまんしようとおもったものの、そこからさらに10分、だらだらと物語が続いた。これは、いい加減に飽きる。脚本、工夫が要るね。

 ソウル大出の同級生の記者がいう。この国は腐ってる、テレビや新聞を信じる連中はくそだ、みたいな愚痴をならべる。たしかに、当時はそうだったんだろう。けど、ソン・ガンホ演じる金稼ぎに目が眩んでいる弁護士には、その理屈がわからない。アタマから、マスコミを信用してる。高卒でも司法試験に通って弁護士になって稼ぎ頭にもなってるから、政府を信じてマスコミを信じるのが当たり前だと。ここまでで40分。長すぎる。

 どんなに卵を投げつけても岩は壊れない。そのとおりだ。しかし、岩は固くて死んだもの、卵は生きている。てなことをキーになっていく食堂の息子とのやりとりがすべての象徴になってるんだけど、なんだか蛇足な感じがしないでもないな〜。

 ただまあ、後半、俄然おもしろくなる。

 韓国はこの軍政時代をずっとひきずって映画がつぎつぎにできる。抑圧がよっぽど強かったんだろうけど、公安というのかKCIAというのか、とにかく、北朝鮮の脅威をひしひしと感じてた時代だったんだろう。だから、発禁処分になりそうだとか、警察の理解できないような文学的なつながりだとかの学生たちはつぎつぎに検挙され、食堂の息子もそうだけど、これが裁判になっても国家の強圧はおさまらない。こういうのは腹が立つよね。こうした演出、韓国映画はうまいな。

ヒューマニスト・ヴァンパイア・シーキング・コンセンティング・スーサイダル・パーソン

 ☆ヒューマニスト・ヴァンパイア・シーキング・コンセンティング・スーサイダル・パーソン(Humanist Vampire Seeking Consenting Suicidal Person)

 

 おもしろかった、それもかなり。

 でも、製作側のこだわりがあるとはいっても、やっぱり、邦題、考えろよ。ていいたくなるくらい、よくわからん原語のタイトルはよくないっておもうんだけど、どうよ。

 人が死ぬのをまのあたりにしたせいで、成長しても吸血の牙が出なくなってしまうという、心的外傷後ストレス障害になってしまった吸血鬼の少女(サラ・モンプチ)の物語なんだから、いくらでもつけられるだろ、と、いいたくなるんだよね。

 好きになった青年(フェリックス・アントワーヌ・ベナール)が窮地に追い込まれないと牙が出ないっていう恋心と血への欲望がごっちゃになった設定もいいし、過度なコメディになってなくて、純粋な吸血ラブストーリーになってるところが好感が持てる。

 吸血鬼になってからの血の気の通わないメイクもうまいし、なんともいえない落ち着きはらったシュールさも好かった。この脚本も兼ねた監督アリアーヌ・ルイ・セーズ、いいね。

 

最後まで行く

 ◎最後まで行く(끝까지 간다)

 

 事件が大きく動くのは、真犯人から電話のある真ん中あたりだ。実をいえば、それまでは、いやいや、けっこう先が読めた。最初、クルマの真横にあらわれる影がもはや最初から死んでるんじゃないか?っていう感じで、ぶつかってくるところからして、ちょいと興醒めなところはあった。

 ところが、3分の2あたりでようやく轢死体だとおもってたのが銃創だとわかるんだけど、追い込まれてゆく過程はまじにおもしろい。身体、張ってるなあっておもったよ。旧市街の細い石段から転げ落ちるところや、次々にぎりぎりで停車するクルマをかいぐくって道を横断してゆくのを俯瞰の長回しで撮ってるんだけど、こういうの、大変だよ。

 さらに、ため池の堤防で汚職警官のクルマが爆破されたのも凄かった。いや、クルマになんだかわからないけど、巨大なハンマーがぶちおとされてくるのもそうだし、考えてるわ~と。

 この映画がおもしろいのは、主人公が、儒教ではぜったいにダメな母親への孝行どころか、その棺桶の中に自分を事件に巻き込んでる死体も入れちゃえっていう判断をしちゃうところからで、もはや、それだけこの情けない主人公が追い込まれてるのが見えてくるわけで、でも、情けないながらもどんどんと行動していくところが物語のスピード感とわくわく感を増させてるんだね。

 いや、脚本・監督のキム・ソンフン、やるわ。

 主人公のイ・ソンギュンもよかったしね。

 

 以下、補足。

 ちなみに、日本では岡田准一の主演でリメイクされているみたいで、予告編だけは見たんだけど、そのほか各国で続々リメイクされてるようだ。へえ、そうなんだあ、それほどこの映画は衝撃的だったんだ~と、あらためておもったわ。

マルホランド・ドライブ

 ◎マルホランド・ドライブ(Mulholland Drive)

 

 夢の中で、ぼくは君とこのダイナーにいたんだ。裏には正体不明の男がいた。とかゆーわけのわからない話をするのはいつものリンチなんだけど、席を立ったときには、テーブルに残っていた食べかけのモーニングプレートがあったのに、カットが変わってふたりの男の客が店を出るときには跡形もなく消えている。つまり、かれらは、はなからここには存在してなかったってことか?

 ほうら、ぞくぞくする時間の始まりだ。

 電話帳を調べると載ってるとかっていう好い時代だから、こういうちょっとした映像の小細工がぞくぞくしたのかもしれないけどね。

 それで、途中、カウボーイハットのおっさんがいうんだな。人の態度や立ち振舞いで、その後の人生が決まる。そーか、それが主題だったのか?けど、このおっさんはいったい何者なんだ?おっさんだけじゃない。まるで『ツイン・ピークス』の赤い部屋のような謎めいた部屋で、この世の動きをすべて決めているかのようなマイケル・J・アンダーソン(ツイン・ピークスの小人役ね)もそうだ。彼が電話をしているんだけど、こういう得体の知れない連中がこの不条理を操ってるってな感じになってるんだね。

 それにしても凄いな、ナオミ・ワッツ。オーディションのシーンなんか、凄い演技だ。オナニーしているときのすべてを破壊してやるっていうような顔もまた凄い。いったい、なにが起こったんだ?て聞きたくなるくらい。

 まあそれでね、『サンセット大通り』はプールの死体が語るわけだけれども、こちらはテラスハウスのベッドの上で自殺した猿みたいな女優が死にながら夢を見ているってわけで、それがナオミ・ワッツっていうことになるんだね。だから、カウボーイハットのおっさんに、こう告げられるんだな。

「おめざめの時だよ、子猫ちゃん」

聖職の碑

 ◎聖職の碑(1978 東宝 シナノ企画) 

 

 大正2年当時、信州箕輪に北大路欣也寺や三浦友和や田中健の演じるような、白樺カブレと呼ばれた「進歩的な」教師がいたかどうかは知らないが、戦後、日本はこういう「進歩的」なものを知らず知らずのうちに教え込まれてきたことはまちがいないかもしれないね。

 そんな教師たちの理想主義を、下川辰平は怒るんだな。自由という名のもとに、理屈をこね、体制に反抗する子が増えたと。助役や頑迷な親たちから見れば許しがたいような石膏ヌードのデッサンをさせる教師どもが増えたと。

 ま、わからないじゃない。

 でも、初めてこの映画を観たとき、当時、ぼくは青臭いお年頃だったんだけど、下川辰平の演じる助役はなんて古臭いんだろうと感じたものだ。けど、なんだかなあ、進歩的ってなんだろうな〜って、この頃、おもうようになってる。

 とはいえ、水は飲みたくても我慢しろ。飲めばすぐ汗になってまた飲みたくなる。苦しくなるだけだぞ。by三浦友和。そうなんだよね、白樺カブレでも、飲料に対してはかなり錯誤した意見になってる。いやもう、鶴田浩二演じる校長の鍛錬主義もそうだし、教育委員会の事なかれかつ権威主義もそうだし、時代だなあ。

 つか、いきなり、ぴんときた。

(そうか、この映画、あたらなかったのは子どもがつぎつぎに死ぬからか)

 長野県は後援にも立ってるから学校動員とかあったんだろうけど、やっぱり、子どもがつぎつぎに死んでいくってのはあんまり観たくないのかもしれないね。でもまあ、森谷司郎も『八甲田山』のあと(だったよね、これ?)ってこともあったんだろう、どうしても話がこぢんまりしちゃったかもしれないね。

 けど、木村大作、苦労しただろうなあ。山の稜線を主役にしたかったんだろうけど、どうしも真夏の山岳で稜線と雲をしっかり撮ろうとおもえば、手前の人間や景色はつぶされちゃう。いやいやいや、露出決めるの、大変だっただろうね。

哭悲 THE SADNESS

 ▽哭悲(哭悲 THE SADNESS)

 

 いやあ、こんなに不愉快でひどい映画はひさしぶりだな。

 ていの悪い自主制作映画みたいだ。臺灣の映画とはおもえないような、血みどろの気持ち悪いゾンビなのかなんなのかよくわからない白目のなくなった黒目人間どもの単なる残虐皆殺し映画でしかない。

 最初のあたりは、そーか、ゾンビがあふれると、テレビをつけても『國家警告』の文字が出て『緊急情報が出るまで待て』とされるのか、リアルだな~てなことをおもってた。でも、いきなり昔っぽいアニメが放送されたかとおもえば「悪魔のパレード」で、町のアナウンスが流れて『住民の皆さん、よく聞いてください。あらたな規定をお知らせします。男性の住民は今すぐ市役所へお越しください。全員のアソコを切って犬に食わせます。女性がお越しになった場合は道端で犬に犯させます』と。すごいな、とおもった。ここから、どんとん凄くなった。平和とか、穏やかとか、言ってられない。もう、血みどろの連続だ。自主製作映画みたいな分、なんとか我慢して観てられたけど、中盤あたりから、こりゃちょっと残酷すぎる、めちゃくちゃな映画だなとおもいだしたら、もう辛すぎてたまらなくなった。

 台北の郊外で、同棲しているカップルがいて、女の方が働きに出るんだけど、地下鉄に乗ってる中でゾンビの襲来が始まり、一方、男の方も郊外までゾンビ・パニックが始まり、指は切とされるわ、それでもバイクで彼女を助けに行かないといけないわってな観じで物語は進んでいくんだけど、結局は、このふたりはめぐりあえるんだろうか?っていう興味がたったひとつだけ残されるだけで、あとは、もう、めちゃくちゃすぎる。

漂流死体

 ◇漂流死体(1959年 86分)

 

 小宮光江が、いう。わたし、いくら背のびしても三國さんの奥さんにはなれないんだわ。すると、三國連太郎、な、き、む、し、とか言っちゃう。それも、ほっぺたをちょんちょんしながら、な、き、む、し、だ。うわ、古くさい濡れ場だな。おもわず、のけぞった。でもまあ、これが、当時はかっこよかったんだろう、たぶん。

 しかし、ふたり主演なのに、高倉健、なかなか出てこんのですよ。米軍の情報将校は疾走するし、それを追いかけてた刑事は殺されるし、でも、健さんは出てこない。ところで、加藤嘉はじめ、みんな中折れ帽かぶってんだな~とかつまらんことをぽつぽつおもって26分経過したとき、ようやく、新聞記者の後輩役で、健さんが登場。現場に入れない米軍と横浜県警に「しょーがねーな、こんなことじゃー」と悪態つくのは良いんだけど、おお、オールバックやん。この頃の健さんは、どうやらまだ自分のスタイルが決まってない時代だったようで、このあともしばらくオールバックなんだよね、たぶん。

 健さんはさておき、麻薬とかの密輸は、たいがい、米軍の影が見え隠れして、黒幕には謎の中国人とかがいたりする。定番だから、なんの新鮮味もないんだけど、まあ、なんとなく当時のハマの匂いが感じられるのが特徴かも。それと岸田劉生ばりの新興住宅地の荒削りな開発現場の土手や崖が、当時を匂わせる。

 でも、そうだなあ、あんまりドキュメンタリータッチってわけじゃないなあ。