プリデスティネーション

 ☆プリデスティネーション(Predestination)

 

 ロバート・A・ハインラインの『輪廻の蛇』が原作なんだけど、かなりちゃんと作ってあった。

 イーサン・ホークはまあこんなもんだろうって、なにもかも知っているバーテンダーっていうか、主人公の最終形といった方がいいのか、とにかく中盤までは脇に徹してる。注目すべきは、半陰陽ふたなり)を演じたサラ・スヌークで、処女だった彼女、性転換せざるをえなかった彼とかなり見事に演じてた。メイクが凄いんだね。

 それにしても、イーサン・ホークが誘拐して捨てていった赤ん坊がふたなりで、孤児院で育ったサラ・スヌークが長じて夢やぶれ、性転換した後のサラ・スヌークと恋愛して生まれた子っていう輪廻の象徴の赤ん坊になるわけだけれども、赤ん坊を盗まれたサラ・スヌークは任務の途中で手ひどい火傷を負い、整形したことでイーサン・ホークになるっていう。

 それで、イーサン・ホークはバイオリンケース型のタイムマシンを抱えてところどころの「時」に現れ、ぶれまくっている自分の生涯がそのままぶれないように矯正していくっていう使命を担っていくわけなんだけど、いや、このこむつかしい設定をそのまま物語にするっていうちからわざを見事に描いていたね。

サスペクト 薄氷の狂気

 ◇サスペクト 薄氷の狂気(Night Hunter

 

 なるほど、薄氷ってのは、刑事ヘンリー・カヴィル犯罪心理分析官アレクサンドラ・ダダリオと多重人格者のふりをしていた双子の犯人ブレンダン・フレッチャーが対決するクライマックスの、氷結した池での決着のことをいうわけね。

 いや、邦題、もうすこし考えてつけたらいいのになあ。

 物語のミソは、拘留されてるはずのブレンダン・フレッチャーがもしも連続強姦殺人犯の犯人ならば、どうやって警察署から外に出て犯行をしつづけることができるのか?ってところにあるはずなんだけど、どうも、脚本がうまくなくて、視点が散漫になって展開が足踏みしてる。

 足踏みの原因は、ベン・キングズレーの元判事にして私的制裁をしつづけるわけのわからない自称正義の味方の存在だ。自分の妻と娘を強姦されて斬殺されたことへの復讐として、強姦魔たちをつぎつぎに捕縛してはたたき殺していくっていう、それも途中で警察に見つかっても連行されるどころかなかば野放し状態になったままっていう、なんじゃこりゃ的な人物の存在で、いや、物語に花を添えるつもりが二重主役みたいになっちゃったのは、よくなかったなあ。どちらかにしないと。

 それと、部長刑事スタンリー・トゥッチベン・キングズレーのふたりとも禿げてて残りすくない髪の毛を剃って坊主アタマにしてるもんだから、最初は見分けがつかなくて困った。つか、それは女優たちもそうで、みんな綺麗なのはいいんだけど、始まりのあたりはちょいと戸惑った。透き通るような青い眼のアレクサンドラ・ダダリオだけは見分けられたけどね。

 

オンリー・ザ・ブレイブ

 ◇オンリー・ザ・ブレイブ(Only the Brave)

 

 ジェニファー・コネリーアンディ・マクダウェル、懐かしの女優特集だな。

 てなことをしみじみおもっちゃうくらい、前半45分まで登場人物の整理に費されるのがちょっとたるい。ホットショット隊になれるかどうかの本番審査が立会人との揉め事から始まるまで、45分も掛かってる。10分切りたいわ。だれるわ~とおもったら、いやいや、さらに65分までのインターバルがさらにだれる。

 監督のジョセフ・コシンスキーは『トップガン・マーヴェリック』や『エフワン』の監督で、スピード感に定評のある演出だったはずなんだけど、なんで?っていう疑問がぬぐえないまま、後半に入ったとき、なるほど、そうか、とおもいいたった。

 実話なんだよね。

 だから、故人の家族のいろいろな点描が必要なんだろうな、たぶん。

 でも、実際に残された家族の手前、ぐいぐいとおした演出もできなかったにせよ、もうすこし脚本はなんとならなかったものだろうか。防火テントのくだりはおもしろかった。伏線で、2度も防火テントにこだわってるのはそういうことかって納得はするし、なるほど、森林火災の現場の雰囲気も映像もなかなか見ごたえはあった。

 でも、やがて犠牲になるジョシュ・ブローニンたち19人の最後の状況へ至るまでのやりとりや、その現場に向かわざるをえなかった過程をもうすこし追い込んでもよかったんじゃないかなと、そんな気がするんだよね。

 

ドミノ

 ◇ドミノ(Hypnotic)

 

 Hypnoticっていう原題の意味は、催眠とか催眠状態っていうようなものらしい。

 まあ、そのとおりなんだけどね。ベン・アフレックが冒頭からずっと催眠状態に置かれてる中での、似非の覚醒から真実の覚醒へといたる物語だ。そう、なんというか、モチーフとしては、古い。クリスタファー・ノーランが『インセプション』とか『テネット』で主題にしたのとおなじ部類の世界だ。古い。

 ぼくの中では、こうした心の産み出した幻の世界っていうか、狂っているのはこの世界なのかそれとも自分なのか的な世界は、フィリップ・K・ディックのお得意世界で、これに感化された僕たちは、しきりに催眠状態のような世界に憧れたものだ。

 それは、常識の通用しない、文字どおり狂った世界で、時の流れという常識まで狂ってしまう。つまり、一方的に過去から未来へ流れるはずの時の流れが、いきなり逆流したり、撥ね飛んだり、過去と現在と未来をあっちこっちと行ったり来たりするんだね。そういう世界の物語はできないものかと、あれこれ思い描くのが、1975~1985年あたりの一部の流行りだった。ぼくたちは、熱にうなされたように、狂った世界を追ったものだ。

 ノーランや、この作品の監督のロバート・ロドリゲスはそういう連中のひと世代下にあたるんだろう。かれらに対して羨ましさというより嫉妬をおぼえるのは、こういう世界を享受してくれる人たちが圧倒的に増えたっていうことだ。

 ただ、かれらよりも前に、そう、リドリー・スコットたちの世代にも、ディックの不条理な世界に興味を抱き、映像化してきた連中はいた。そうした人々がSFやファンタジーの映像世界を創り出してきたんだね。

 ベン・アフレックも、けっこうそういう世界が好きなのか、前にも似たような映画に出てた気がするんだけど、どうなんだろう?

 まあそれはともかく、めざめた瞬間からすべて虚構の世界で、その世界の中で出してくる答えが、ベン・アフレックの娘の所在なんだけど、そこで彼女がドミノ牌をならべて待ってるっていうだけでタイトルにするのはどうよ?てな気になる。それと、催眠をかけるんなら、その部屋の椅子の上だけのことでもかまわないわけで、なにも陳腐なセットの中で動きまでつけさせてっていうのは、ちょっと無理があるぞ。バイクとかに乗ってるときはどうするんだ?

 そんな強引な筋立てながら、ぼくはまあまあ好きな映画だっけったけどね。

 

アンシンカブル 襲来

 ◇アンシンカブル 襲来(Den blomstertid nu kommer/The Unthinkable)

 

 しかし、この邦題(※安心かぶる?)だめでしょ。

 まあ、それはそれとして、いやほんと、親子はよく似てるって話だ。

 いじめられっこで、父親イェスパー・バルクセリウスとの関係がギクシャクしてる主人公クリストファー・ノルデンルートは、ギターが欲しい。しかしそんなもの買ってやれるかと怒鳴る父親に内緒で、母親は家計をやりくりしてギターをクリスマスのプレゼントに買ってやるんだが、高級なチェーンソーを母親に貰った父親もまた自分の使っていたギターを直して用意してた。

 で、母親に感謝する息子をまのあたりにしたとき、自分は直したギターを隠し、プレゼントのギターも取り上げ、怒鳴り散らし、納屋に籠もってギターをふたつとも破壊する。

 ま、これはわかるし、演出もいい。

 息子は母親が出ていった翌朝、憧れてた女友達のために書いた楽譜を渡そうとするがそれができず、どうしたの?と訊かれ、なんでもない!と怒鳴り、楽譜は握り潰す。不器用な親子だ。

 この親子のいびつな関係をひきずったまま、異星人の襲来が生起し、ひとりで洞窟の中の変電所を守り続ける意固地な父親イェスパー・バルクセリウスと作曲者になったクリストファー・ノルデンルートが再会して、かつてうまくいかなかった恋人リサ・ヘンニとめぐりあうものの、彼を待てずに結婚しちゃってるとかいう、じつに定番な物語で、いやまあ、宇宙戦争の恋愛版みたいな映画だったわ。

 

 

モンスターズ 悪魔の復讐

 ◎モンスターズ 悪魔の復讐(Lizzie)

 

 まず、この邦題、だめだわ。

 1892年に生起したリジー・ボーデン事件っていう実話がもとになってるらしいけど、このめちゃくちゃな邦題のせいで、B級スプラッタかホラーだとおもってたわ。作品を見終わっても、いまだにタイトルからはそういう印象しか受けない。

 さて、中身はなかなかたいしたものだった。

 なるほど、資産家の父親が殺される。お手伝いに雇われたクリステン・スチュワートが凌辱されるんだけど、罪を犯した夫を妻は殺したいとおもう、またクリステン・スチュワートも犯された復讐をしたいとおもう、ストレスで癲癇を発症してる娘はクリステン・スチュワートレズビアンの関係になるから嫉妬するだけでなく彼女を辛い目に遭わせた父親に殺意を抱く。妻の弟は義兄の相談相手で娘の後見を頼まれているが後釜に座りたい。町の連中は次々に土地を買い漁っていく父親をよくおもっていない。

 そこへもって好ましからざることが起きるぞという何者かの脅迫状。

 そして泥棒騒ぎ。

 始まってすぐにこれだけ理解させられる。上手い。

 このあと、それぞれの家族や使用人の感情が逆撫でされていくわけだけど、けっこう淡々としてる。外連味がなくてかえっていいかも。あ、クロエ・セヴィニー、製作も兼ねてるんだね、そうとう入れ込んでるなあ。

渇きと偽り

 ◎渇きと偽り(The Dry)

 

 クルマの砂塵が乾燥を際立たせる。渇いて涸れ果てた池の跡。舞台がオーストラリアの田舎であることを否が応でも教えてくれているかのような映像。なるほどね、心も渇ききってる故郷に帰ってくるっていうことね。

 まあ、学生のときに忘れがたい事件があって、それが好きだった女の子の謎の死で、その犯人もわからないまま、それどころか自分が犯人じゃないかと陰口をたたかれたまま故郷を離れてしまっているのに、当時の仲間が妻と乳幼児を殺して自分まで自殺しちゃったもんだからその葬式に、しかもその自殺にはいかにも裏がありそうで、真犯人がいるようで、その家族から内密に捜査してくれとか頼まれて……っていう、なんとも古典的な舞台と相関関係の設定なんだけど、まあ、予定調和の展開とはいえおもしろかった。

 いや、おもしろかったっていうより、個人的な世界のひとつの解決に過ぎないんだけど、心象風景よりも現実な風景が展開されてて、ひとつひとつを納得しながら観られたっていう感じかな。

 エリック・バナは地味ながらも外さない容姿と演技で、なんていうか、落ち着いて観ていられるっていうか、そういう役者なんだけど、こういう実直さのある役者ってあんまりいない。貴重なのかもしれないね。

 このところ、殺人ってのは、見知らぬ者の犯行って少なくなってきてて、そのかわりに父親だとか教師だとかが絶対にやっちゃいけないことに、たとえば、変態性欲とか、違法賭博とかに手を染め、それで犠牲になるのは家族や生徒っていう、そういう縮図が日本だけじゃなくて世界的にできちゃってるような気がする。

 これも、そういうことをおもいださせた。